「神奈川近代文学館・佐藤さとる コロボックル物語展 だれも知らない小さな国」を契機にして、少し書いてみたくなった作品論です。
子供の頃に好きだったドリトル先生とコロボックル §
子供の頃に特に好きだった小説のシリーズは、ドリトル先生と佐藤さとるのコロボックルシリーズです。
似ている構造 §
この2つは、作品が持つ構成が似ている……ということに気付きました。
- 現実世界と重なって、もう1つの異世界が存在する (動物語でコミュニケーションする動物たちの世界、コロボックルの世界)
- しかし、異世界の存在に人間達は気付かない
- 主人公は、人間でありながら異世界の存在を知り、そこに越境する
- 主人公は、2つの世界のパイプ役のような役目を務めるが、現実世界ではその役割が認知されない
- 主人公は1人ではない。特別な人間ではなくても、主人公に立てる (ドリトルではないただの少年に過ぎないトミー・スタビンズは主人公になれ、せいたかさんではないただの少年に過ぎないおチャ公は主人公になれる)
このように構造の骨格を抽出すると、呆れるほどに似ています。
なぜ心惹かれるのか §
読者の視点から見て、このような構造にはどのような効能があるのでしょうか。
それは、以下のような点に求められるかもしれません。
- 現実世界と上手く折り合いを付けられない主人公が、異世界においては特権的な存在に立てる
- 異世界に対して物理的に越境する必要がない。船で海に乗り出す必要も14万8千光年の旅をする必要もなく、ただ目の前の現実世界に重なって存在する異世界から承認されるだけでよい
- 特別な存在ではないただの少年でも、主人公になれる
つまり、身も蓋もなく言い換えれば、以下のように言い直すことができます。
- 社会の中で上手くやっていけない者が、新しい場所に出かけていくという努力を払うことなく、自分を承認してくれる社会を得る
- しかも、特別な存在である必要はない。ただの少年で良い
実にご都合主義で現実逃避的な構造ですね。
まず、ここを踏まえましょう。
子供というのは、社会から一人前と承認されない存在でありながら、承認されたいという欲求を持っています。
そのような立場の者から見て、「大人になるまで待つ」という正攻法ではない、裏技的な方法で社会からの承認を得るという物語構造が魅力的に見えるというのは、十分にあり得ることでしょう。
しかし、これをもって結論として終わるのは早計でしょう。
別の角度から見ると、現実逃避とは正反対の大きな価値がそこに見出されるのです。
(未完……、続きが書かれるか否かは不明)